Reported by H.Sasaki(堀江ヴェスティブル編集長)

「来るぞ、来るぞ」と言われていた堀江が、今年遂にブレイクした。堀江の仕掛人の一人に挙げられる日限氏が堀江公園横にカフェ「muse」をオープンさせてから、実に3年もの歳月が経つ。なぜ堀江はブレイクしたのか。そして、今、堀江がどんな問題を抱えているのか。外からは決して伺い知ることのない堀江の現状を現地在住スタッフがリポートする。
堀江の勢力は大きく3つに分けることができる。それは、「1.原住民系」「2.脱アメ村系」「3.東京資本系(一部大阪大バコ系も含む)」となるのだが、それぞれの思いと影響力が今、堀江に大きなうねり(光と影)を引き起こしている。この分類は堀江の歴史に繋がる部分であり、このコラムを進める上でも非常に重要な要素なので、まずはそれぞれの解説とそのバックグラウンドについて述べさせていただきたいと思う。
現在の住居表示で堀江と名が付くのは「北堀江1〜4丁目」と「南堀江1〜4丁目」のみである。これは南北を道頓堀川と長堀通り、東西を阪神高速環状線と木津川に囲まれたエリアであり、長堀通りと阪神高速環状線の場所が元々は河川であったことを思えば、「堀江」の名の由来は想像に難くない。さて、その堀江、江戸時代は前述のような立地と一大マーケット「心斎橋」を目前に控えていたことから、材木の取り引き場所として問屋や家具屋が集まっていたらしく、その名残りは北堀江の材木問屋街と南堀江の家具屋街(立花通り)に息づいている。その後、堀江は花街としての顔を持つようになり、非常にステータスのある場所として認知されることとなる。(今でも北堀江に数軒、舞台を残した家屋が残っている) この頃から徐々に住宅地としての顔も持ちはじめたようで、昭和の時代には堀江市場(堀江公園南に今も現存)がオープン、連日買い物客で賑わったという。「原住民系」とは、その時代から堀江に店または居を構えていた先人の二代目、三代目といった人たちである。いわば本当の堀江を知り、堀江を心から愛して止まない人たちなのだ。<2000/11/01>
さて、そんな堀江がブレイクすることとなったルーツが、3年前のアメ村にあることは一般にはあまり知られていない。そこには「脱アメ村系」の存在があり、彼ら(彼女ら)が堀江に及ぼした影響は無視できない。それでは、「脱アメ村系」と3年前のアメ村の背景を少し語ろう。「脱アメ村系」とはその名の通り、元々はアメ村にショップを構えていた人たちで、アメ村以外の場所へショップを移したグループのことである。彼ら(彼女ら)の共通点は、「いいものをじっくり選んでもらう」という骨のあるコンセプトを持つところで、そのバックボーンには、自分達の扱う商品に絶対的な自信をもっていたり、他では簡単に手に入らない商品を扱っていたり、というオリジナリティを持っていた。そんな彼ら(彼女ら)が、なぜアメ村を脱出しなければならなかったのだろうか?実は3年程前、アメ村は危機的状況を向かえていた。それは、アメ村の観光地化による「出店ラッシュ→家賃の高騰→採算を取るためのビジネスライクな仕入れ・接客→儲かる→更なる出店」という悪循環により、街全体がその質を大きく低下させ、客層の低年齢化を引き起こしていたのだ。<2000/11/08>
その結果、アメ村では複数の店鋪を持つ有名店が人気を呼び、同じような商品が氾濫し、いいものをじっくり選んでもらうという商売が通用しなくなっていたのだ。そんな状況に追い討ちをかけるように、旧南小学校跡地に、大型商業施設「BIG STEP」が誕生。これを機に骨のあるショップ(オーナー)たちが周辺地域に脱出、実力派ショップのアメ村ドーナツ化現象が顕著化しはじめた。脱出先は大きく2箇所に分かれた。長堀通りを挟んで北側、御堂筋に面した「南船場4丁目エリア」、四ツ橋筋を挟んで西側に位置する「堀江エリア」である。大阪では御堂筋の集客力は絶対的であるため、当初から「南船場有利」が予想され、実際に南船場はすぐにブレイクした。(当時、アメリカ村の北に位置することから「カナダ村」とも呼ばれていた。)対する「堀江エリア」は、アメ村の母と言われる日限氏(実は堀江出身)が、堀江公園横にカフェ「muse」をオープンさせたにも関わらず、立地の不利からか、今イチ波に乗れないでいた。<2000/11/15>
そんな中、1998年、オレンジストリート東入口付近に「A.P.C」がオープン。これが、堀江に足を踏み込む人数を圧倒的に、しかも確実に増加させていくこととなる。既に最低限のポテンシャルを持っていた堀江エリア。ブレイクのカギは「四つ橋筋を越えさせることができるか」その1点にかかっていたといっても過言ではなかった。それが前述の「A.P.C.」の出現によりクリアされ、四つ橋筋を超えた客の多くが堀江エリアを散策しはじめた。結果、いくつもの魅力あるショップをクローズアップさせることとなる。併せて、パブリシティもごぞってこのエリアを紹介することとなる。あとは、人がショップを呼び、ショップが人を呼ぶ互いの相乗効果により、上昇スパイラルを描くこととなった。そして今年、満を持して、「ジャーナル・スタンダード」「アーバン・リサーチ」「ヘッド・ポーター(吉田カバン)」「n44」「DEPT」といった超ブランド店が相次いで進出。今日の本格ブレイクを迎えたのである。<2000/11/22>
一方、このブレイクの影で様々な問題も浮き彫りになりつつある。まずは、ショップ乱立によるポテンシャルの低下。現在、週2店鋪のペースで増殖していることからも分かるように、今や堀江は「おいしい場所」となった。お洒落な雰囲気を演出すれば、「客が勝手にやってくる」といっても過言ではない状態なのだ。そんな状況の中、殿様商売と言われても仕方のないショップも現れ始めている。具体的に言えば、ブランド力にモノを言わせた失礼な接客姿勢や料理など。それらは地元に住んでいればある程度認知されているが、雑誌の情報を鵜呑みにするしかない地方の人たちにとっては、判断することが不可能だ。事実、それらのショップはいつもお客がいっぱいで、そのお店を目当てに堀江に足を踏み入れる人も少なくないと聞く。これらのショップで受けた対応が、そのまま堀江のイメージに繋がることは、誰の目にも明らかだ。これは堀江地区全体にとって、決して無視できることではない。しかし、それでも売れる。それは、情報誌で紹介された堀江のお店に行って、それで満足という一種の観光地現象が起きているからである。さて、この現象に心当たりはないだろうか?そう、【<Vol.02>アメ村の観光地化と客層の変化】で紹介した現象と全く同じなのである。つまり、堀江がアメ村化しはじめているのである。アメ村から脱出したショップ達にとっては、まさに皮肉な現象と言えよう。
<2000/11/29>
それでも堀江地区への出店は留まることがない。今年に入ってもなお、大型店鋪および有名ブランドの出店が次々に明らかになってきた。「Timeless Comfort」「HYSTERIC」「Paul & Joe」などなど。いすれもメジャーな存在であり、その動向は堀江に大きな影響を及ぼすに違いない。更には、某ラジオ局や某出版社まで堀江地区に進出してくるウワサもある。そして、トドメとなりそうなあるプロジェクトが進行中だという。そのプロジェクトとは、某百貨店系列会社による「堀江ファッションビル構想」だ。場所やスケジュールは明らかにできないのだが、仮にこの構想が現実のものとなれば、アメ村の人の流れは堀江につながることが必至となる。当然、堀江の質は大きく様変わりするであろう。そして、そんな動向を察しているからか一部のショップオーナーは、新しい動きを見せ始めている。そう、脱堀江の動きだ。具体的な候補地としては、堀江の北に位置する「新町」の名が上がっているようだ。確かに、昨年半ばから、新町にはハイセンスなカフェ、レストラン、バーが現れはじめている。特に、飲食店の場合、人の住む街として深夜営業ができない堀江の欠点を、新町では解消できるのも大きな魅力だ。しかも、堀江と南船場に隣接する好立地だから、将来性も感じられる。そんな脱堀江の状態については、地元でも賛否両論だ。「脱堀江の流れがショップの淘汰に繋がり、本当に良い店だけが残るはず」とする肯定的意見と、「注目度の低下によりアクセスの悪さが露呈、結果客足が遠のく」とする否定的意見がある。主役の座を奪われた時の堀江の状態が、吉と出るか、凶と出るのか、誰にも予想がつかない。<2001/02/13>
そして今、堀江衰退の引き金になりうる新たな問題が浮上している。家賃改定問題だ。実は、堀江のテナントの多くは、賃貸契約年数を2年に区切っている。早い話しが、出店3年目の契約更新時に、貸主は家賃の再設定が行うことができるのだ。今や、東京資本の相次ぐ堀江マーケット参入により、坪2万円前後だった立花通り周辺の平均家賃は、現在坪3.2〜4万円にまで上昇。当然ながら2年前の契約家賃との差を埋める動きがあるだろう。一方、既に堀江での知名度をあげ、顧客をガッチリと掴んだ初期参入組のショップは、もはや堀江にこだわる必要はなくなっている。そのうえ、現状の家賃で新規出店する場合、よほどの資本力とブランド力を持たない限り、単独での黒字は見込めないと言われている。この状況を見る限り、今後益々東京系ショップとの契約比率が上昇していくことは必至。だが、ブームが去った時の東京資本の撤退の仕方は、非情なまでのビジネスライクなものであろうことは想像に難くない。その結果、いずれ新たな借り手がつかない事態に陥るかもしれない。その時、急上昇した家賃を再び下げることができるのか、またそれでもテナントが入らない場合の歯抜けのリスクをどう回避するのか?堀江バブルの影が徐々に忍び寄っている今、堀江の未来は決して前途洋々なわけではない。安定的な街の形成に有効な手段を、今こそ見出さなければならないのではないだろうか。<2001/05/23>
◆取材を終えて
取材を初めて約半年、堀江のいろんな人に会い、いろんなお話をお伺いしました。その中でも特に印象に残っているのが、一世代前の立花通りのお話し。わずか十数年前のことですが、当時の立花通りは、家具の街として今と変わらぬ賑わいを見せていたと言います。それこそ「肩がぶつかるほどの状態だった」と、多くの年輩の方が懐かしそうに語られていました。ちなみに約3年前までは、週末の立花通りはまさにゴーストタウン。にわかに信じがたい話しです(笑)。今後、再びゴーストタウンに戻らぬ様、このコラムが少しでもお役に立てる事を祈ります。2001年5月23日
※このコラムは編集部:佐々木が担当しました。ご意見・お問い合せはinfo@honoca.netまで。
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